mojuniの日記

猫イラストレーターmojuniが遂に手に入れたキャンプの様な山暮らし、時々イラスト

春の日の花

2/2、シャクナゲの蕾が綻んでいるのに気づきました。ああ、今年もまたちゃんと春がやって来る。

 

人は冬に老化する、と経験上そう思っています。8年前ここへ引っ越して来たのが極寒の年末、あれはまずかったなぁ、と今になって悔やまれる。引越しは出来る限り冬はお避け下さい、と皆様へはご忠告申し上げます。

1月初旬にカレンダー発送を一応終えて、15日にクロリーを見送ったあと、ずっと疲労困憊、腑抜け状態でゴロゴロしていました。メールや小包をお送り頂いた皆様へも欠礼しっぱなし、申し訳ありません。そろそろ復活しなければ。

 

話が支離滅裂ですが、そんな時期、元気をもらえたのが「ブギウギ」。期待していた「らんまん」は悪いけど面白くなかった。

舞台になった「大阪福島区の銭湯」、私も20年程同区の2、3ヶ所の銭湯にお世話になっていた時期があり、佐川に続いてまたまた土地勘満載。

笠置シヅ子さんの生まれ故郷、香川県(旧)相生町にもたった1度だけ行ったことがあります。懐かしくも悲しい思い出。いくつの時だったのか思い出せませんが、恐らく佐川から母と二人、鈍行の汽車に乗って。春だったか夏だったか、よく晴れた日。海のそばの堤防沿いの道を歩いて歩いて、すると突然田んぼの真ん中に「◯◯子生誕地」と書いた大きな白い看板が立っていて、母が歌手だと言っていた。今思えば他ならぬ笠置シヅ子さんだったんだ。緑の山と田んぼ、白い堤防、青い海、黒い魚網、ゴトンゴトトトンと言う汽車の音。不思議な位、いまだに良く覚えている。停まった駅で買ったお茶の陶器の入れ物。四角くて針金の柄がついて(と記憶している)丸い蓋が湯呑みになるアレを手土産に大事に持って帰りました。

母は職探しに出かけたのでした。道を聞いて借家を見にも行きましたが、結局そこの仕事は決まらず住むことはありませんでした。いつのことだったのか、どう言う事情で職探ししなければならなかったのか、もう訊ねる人はいない。

 

 

 

 

阪神淡路大震災の記憶

元日、恐ろしい大災害に遭われた皆様へ心よりお見舞い申し上げます。亡くなられた皆様のご冥福をお祈り致します。

 

過去ブログで何度か繰り返し書いた内容ですが。

29年前、大阪で人生最大の大災害に遭遇した私は、もしかしたらこの時即死していたところでした。今生きているのは本当に奇跡です。

堂島川沿いのマンションで3匹の猫を飼っていました。今と同じく何時に起きて何時に寝るか、全く成り行き次第の生活でしたが、その前の夜は珍しく0時過ぎ頃にちゃんと寝床で就寝したのです。シェフは隣の部屋で起きていた。

そしたら2時頃、当時7才位のシャムの混じった女の子、ラックちゃん(タイ語で「愛する」と言う意味)が突然ニャーニャー鳴いて私を起こし、外へ散歩に連れて行けとせがむのです。そんなことは後にも先にもこの時だけ。幸いにもしっかり覚醒した私は起き上がって、ラックちゃんの要求通り、首輪と散歩ヒモをつけてマンションの周りを暫く散歩させました。部屋へ帰ってからも幸いなことにすぐまた寝てしまうことなくシェフの部屋へ行き、5時頃2人で当時時々日課にしていた早朝体操をしに近くの空き地へ。そこで地震が発生。

シェフはこの時「大阪沈没や」と思う程の激しい揺れを感じたと言いますが、実は何故か私は揺れは殆ど感じなかった、少なくとも地震の恐怖を感じた記憶はありません。

最初に気付いた異変は揺れではなく「音」。突然何十台ものダンプカーの隊列がやって来たのか、はたまた周辺のビル群のシャッターが一斉に上がり始めたのか、と言う様な轟音。思わず発したのが「何よ、これ!?」そして空き地の真ん中で思わず抱き合って呆然と立ちつくしていると、次の瞬間、目に入ったのは遠くの山並み(今思うに神戸の方向)から空へ向かってオーロラの様に立ちのぼる稲妻、ピカーッピカーッと何度も何度も地上から空へと駆け上る稲妻の珍しさに恐怖は全く感じず、ただただ驚きで目を見張っていました。この時反対方向を向いていたシェフは稲妻は見なかったそう。「地震や!」とシェフが言って、私もやっと揺れを感じました。が、恐ろしいと言う程ではなかった。さっきの異常な轟音と稲妻のインパクトで頭がいっぱいだったからでしょう。とにかく恐怖を感じずに揺れをやり過ごせたのは幸いでした。足取りも精神状態も平常を保っていられました。

周りの高層ビル群から非常ベルの音が鳴り響く中、マンションへ帰ると建物は無事でしたが水道管が破裂してパイプスペースから漏水、部屋のドアは中から物が倒れて来て開かず。何とか押し開けて中へ入り猫たちの無事を確認。3匹とも無事。部屋の中の被害は、、、と言っても元からめちゃくちゃ乱雑な部屋なのですが、水切り棚が落ちて食器が割れていたり、20インチのTVがぶっ飛んでいたり、そこそこの被害がありました。

そしてふと目線を下げると、そこには血も凍る様な光景が。ラックちゃんが起こしてくれるまで私が寝ていた寝床の枕の、丁度真ん中に、上から落ちて来た硬くて重い木製のワイシャツ入れの箱が、よりによって角が突き刺さる状態で落下しているではありませんか!

ラックちゃんが起こしてくれなかったら、そして私も運良くパッと目が覚めなかったら、散歩から帰ってまた寝ていたら、、、この枕の上に私の眉間があったのです。

それから何年後のことか今となっては記録がありませんが、命の恩人ラックちゃんは白血病で亡くなりました。実家の裏庭に捨てられた子猫で、当時マンション暮らしでおいそれと拾って帰る訳にもいかず、食べ物だけは与えて誰かが拾ってくれないかと5日5晩泣き続けるのを心を鬼にして放置、とうとうたまりかねて大阪へ帰る日に収容した子でした。その時拾ったのは自分の命だったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

補足、と言うか蛇足

自分の生まれた時刻はどうだったんだろうと、いつも利用させて頂いている「こよみのページ」で「各地の潮汐」を調べてみました。

www.koyomi8.com

 

母から何時頃というのは聞いていたのですが、そしたら何と、ジャスト満潮。その日の小さい方の満潮の時刻でした。何だか怖い。

読書はしない人(いつからかそうなってしまった)ですが、大学時代に語学の教科書として先生が選んだのが何と「星の王子様」@@。ま、これなら文句なしに日本語訳もあるし。帽子に見える挿絵位しか覚えていませんが、たった一ヶ所印象に残っているのは、飛行機から見おろすどこかの草原を流れる細い細い小川とその先にある池だったか?が、海から遥か遠く離れた場所にあるにも関わらず、海水の満ち引きと同期している!と言う作者サン=テグジュペリの「発見」でした。地球上のあらゆるもの、生命体もそうでないものも、太陽と月に支配されている、言葉が悪ければ同期している?と思うと不思議で怖い。

 

 

旅立ち

 

予報に反して冷たい雨風の15日、クロリーは辛い闘病から解放されて天へ昇って行きました。

前夜の点滴は上手く落ち、朝のリキッドはほんの1cc程。昼近く部屋の中を這い回り始め、辛そうにかすかに鳴いて首を振る。とうとう運命の時が来たと、シェフとも相談して、かねてからの動物病院の先生のアドバイスに従うことに決め、キャリーケースに入れようと抱き抱えると、異様な大声でアーアーアーと5回鳴いた。何のために出かけるのかを完全に理解している。発車した後、それでもクロリーはイヤなんじゃないかと思い悩んだ末に連れ帰り、また部屋に戻ると、クロリーはもう一度同じ様にアーアーアーと鳴いた。え?どうして欲しいんだろう、、、。それからすぐ眠ったのでそっとしておいて人間の食事(そんな場合じゃなかったのに)を済ませて、クロリーの元へ戻った時にはたった今しがた事切れた状態。ああ、何でずっと見守っていてやらなかったんだろう。

クロリーが苦しみ始めた、と言うか後から思えば脳性の混濁状態になったのかも知れませんが、その時間は引き潮に転じた頃、そして事切れた時刻は正に干潮でした。身内の医者がいつも危篤の患者さんが出ると潮汐の時刻を調べていました。当時はスマホもネットもなく、新聞の一面に掲載されていた?天気予報欄を見たのかなと思います。「人は引き潮の時に死に、赤ん坊は満ち潮の時に生まれる」のだそうです。医学書に書いてあるのかどうかは知りませんが、猫の場合これまで殆ど当たっています。その人自身が亡くなったのは正に満月で大潮の夜、満潮から潮が引き始めた時刻でした。

 

クロリーはここへ引っ越して来て間もない頃、うちの近所で初めて出会った捨て猫、まだ子猫が抜け切らない年頃でした。やや慣れていて一度脇を持って抱き抱える事も出来たのですが暴れそうになったので手を離してしまいました。それから数年時々姿を見かける度にカリカリを置いてやったりして、うちの方へと誘導していたら本当にだんだんうちの近くまでくる様に。どう考えてもそっくりなもう一匹の黒猫がいる感じ。胸の辺りにチョロッと生えてる白い毛の模様がちょっと違う。後で思うにそれはゆーほーで、2匹は姉妹で捨てられたんだ、と言うのが真相でないか?そして2匹とも相前後して栄養失調で半身茶色のツートン猫になって餓死寸前のところで遂に保護出来たのです。

2匹ともよく慣れて先輩達とも仲良くなり、幸せな生活を暫く続ける事が出来ましたが、ゆーほーは原因不明の病気で先に死んでしまいました。尿が異様に黄色い状態が続き病院で調べてもこれと言った異常は検出されず。元気はあったのですが、やがて衰弱、、、。

クロリーはFIVキャリア、歯がボロボロになっていたので保護してすぐ全部抜歯。それでも何でもよく食べました。カリカリでも。そして大食漢。コロナ禍でキャットフード高騰の折、缶詰を何度もせがむクロリーに日に何度かは「カリカリを食べてね」と言っていたら去年3月プイッと家出、歯が一本もないのに元の畑で暮らしているのをまた発見、振り出しに戻ってエサやり開始、そしたら去年10/1の朝、何事もなかったかの様にシェフの布団の上で寝ていた。ちゃんと家も家族も覚えているのに7ヶ月も帰らない意地っ張り。メデタシメデタシと思ったのも束の間、それからたった半月後右頬がドンドン腫れて来たのです。

クロリー、ゆーほー姉妹を捨てた人は必ず報いを受けるでしょう。

 

 

命ある日々

口腔内扁平上皮がんのクロリー。闘病生活が3ヶ月程続いています。

写真は12日の日向ぼっこの様子です。年は越せないと思っていましたが、もうダメかと思うたび、信じられない程の生命力で復活を繰り返しています。隔離病室にしているサンルームのガラス戸を開けると、ヨロヨロとまろび出て来てフラフラとこの原っぱ目指して歩く。私は後をついて行って付き添いです。30分程して連れ帰ってコタツで寝かせます。

 

イカナのリキッドに甘酒を同量混ぜて(リキッドだけだと飲まない) 、猫缶の残り汁等で少し味付けしたものにビタミン剤を加え人肌に温めてスポイド状の容器で口に入れてやると美味しそうに飲むのです。飲んだ後顔も洗う。水も一日何度か自力で飲めてる。止血剤と100cc程の補液を毎日。がんの表面の顔面は悲惨な様相を呈して来ましたが、クロリーは余程神に愛されていると見えて痛みや苦しみは見て取れない。安易な安楽死を選択しなくてよかった、、、。地上の命としてある日々、一日でも長くこの世の日差しを浴び、食べ物を口にさせてやりたい。もしやそれが薄幸のクロリーの幸せな来世への餞になるのではないかと思えて。

 

ミッチーオイルも大いに活用しています。傷口の腫れや化膿が酷くないのはミッチーオイルの効果だと思います。

前は布袋さん(神様の方)の様に腫れて重そうだった患部の頬や喉元に、食事の前後に抹茶(缶入りの高級品)を濃く溶いたお茶をタラタラ流し、口の中にも注入していると腫れはすっかり引きました。その後、抹茶でミッチーオイルを作って食事の前後にたっぷりつけています。オイルの方が乾燥に強く効果も持続するのではと。

ミッチーオイルにがん細胞を死滅させる力があれば、、、

 

 

 

明けました、、、やっとこさ

思いもよらぬ大変な年明けになってしまいました。

皆様、明けましておめでとうございます、とのご挨拶、もっと早くしておけば良かった、、、。

元日にお正月が吹っ飛ぶ様な大災害が起きるなんて、もしかして歴史始まって以来初めてのことでは?被害に遭われている皆様のご無事をお祈り致します。

最近近隣の国々で大きな地震が頻発し、もしや南海トラフが、とヒヤヒヤしていたのですが、反対側の日本海で、、、。こっち側への影響も心配、、、。

 

怒涛のカレンダー発送が大晦日にやっと終わり、一応自宅でお雑煮やお節を食べる地味なお正月を過ごしています。

晦日の午後、カレンダーのレターパック、最後の15コ程を30分も離れた中央郵便局まで出しに行き、夕方からやっと恒例の注連縄作りに着手、そのあと暗くなってから各部屋に鏡餅を配って回りました。大掃除はパスで、お正月準備はこれだけ。

注連縄と言ってもこんな勝手口用のもの。各猫部屋と人間の部屋、車に全部で9本作ります。神道の信者ではありません。風習に沿って敬虔な気持ちを表してるだけ。

車に正月飾りをする方は今やほぼ皆無ですが、昭和のバブル時代には盛んでした。交通安全祈願なので続けています。前の晩にかなりの雨が降って車を綺麗に洗ってくれて助かりました。

鏡餅もパックの一番小さいものを買って庭のウラジロもどきと小さいミカンでそれらしく。

斜めになってるミカン、あとで直しました^_^;

 

積雪

昨日の朝からずっと雪が降り続いて、チラホラ程度の時間帯が多かったのに最大で7、8cm積もりました。今朝7時には道路全面もうっすら積雪、凍ってるところもあります。

カレンダー包装作業は暖房のない部屋(猫のいない部屋)でするので余りの寒さで中止、もし出来てたとしても郵便局へ行けない。などと言い訳するとチャリティーカレンダー作って下さった札幌のいちねこさんに笑われそう。

いちねこさんのチャリティーカレンダー、もう発送完了とのメール頂きました。毎年私の方の準備が遅いため年末ギリギリに食い込んでしまい申し訳ありません。

今日は通院予約あるけど大雪注意報出てるので中止、せっせと梱包作業やります。

皆様も寒波と大雪に十分ご注意下さい。